島津義弘武者絵 色々威胴丸写

島津義弘(1535年〜1619年) 

島津四兄弟 義久(長男) 歳久(三男) 家久(四男)の二男

祖父の
忠良日新斎(じっしんさい)か ら「雄武英略をもって他に傑出する」と称され

二十歳の初陣から最前線に撃って出てた猛将で

木崎原の戦いでは3000の伊藤軍を300で打ち破り、耳川合戦でも大友 軍を打ち破るなど、

島津氏 薩摩 大隅 日向平定そして、九州進撃の支柱であった


その後、島津の進撃を抑える、秀吉の九州征伐、日向高城 根城坂で も

最前線に立ち奮闘するも及ばず大敗したが、

三男島津歳久 大口城 鬼武蔵 新納忠元等と共に徹底抗戦の構えを 見せた。



完成した島津義弘 武者絵 写は仙巌園に展示されてます。


その後は義久以上に秀吉に認められ、伏見 薩摩屋敷で生活を送り、

朝鮮出兵(文録の役)では 島津本領からの軍船が滞り兄義久に「日本一の大遅参」と


書状を送るほど面目を失ったが
慶長の役、泗川の戦いで
、 

朝鮮・明の20万ともいわれる大軍を打ち破り

殿(シンガリ)を務め、
日本軍の退却に最大の功績を残した。




秀吉の死後、関ヶ原の合戦では、兄 島津義久の国許の無い中、

島津豊久率いる 佐土原勢 家老 阿多長寿院盛淳率いる 蒲生衆 

地頭衆や足軽達が自らの意思、路銀で

義弘の為、九州の敵地をかいくぐり、関ヶ原まで馳せ参じた

『薩摩の一騎駆け』は 三々五々と関ヶ原合戦当日まで続いたとされており、

関ヶ原で島津勢の何割かの人間は動くに動けなかったのではないか?と察する。


西軍は小早川の寝返りにより一気に総崩れとなり敗走が始まるが、

島津のみが更に陣を整え、同西軍でさえ自陣に入る事を許さず、

それこそ、一丸となって一気に敵中を突破し 家康本陣目前に迫り

名乗りを上げて 伊勢路を目指し敵中を突破しての退却を開始した。

世に言う『島津の退き口』である。



その後 大阪より 妻・宰相夫人 娘・亀寿姫を救出し

船に乗り 島津義弘は無事薩摩の地に帰り着いた。


島津豊久 家老 阿多長寿院盛淳をはじめ3000名いた薩摩武士の多くが犠牲になり

 義弘と共に戻ったものは80名にも満たなかったとされるが

 
『島津の退き口』は当時66歳の大将義弘を守り無事薩摩まで返す為に、

最良の策であったと言える。

現在でも島津義弘と関ヶ原に向かった薩摩武士の遺徳を讃え偲び、

鹿児島三大行事の一つとして『妙円寺詣り』が行 われている。




辞世の句 「春秋(しゅんじゅう)の 花も紅葉も 留まらず 人も空しき 関路なりけり」 





                                    鍬形 前立等はご要望に応じてアレンジしております。




制作以来 仙巌園

資料提供・制作協力 尚古集成館

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甲冑工房 丸武産業 株式会社

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