行列開始からしばらくたって、やっと実況開始(おいおい)
時は慶長5年..
まずは、総勢16万とも言われた、この関ケ原に「島津」が何故1500ほどの軍勢だったか?
の解説から、簡単に言えば、九州制覇、VS秀吉、朝鮮出兵と
疲弊しきった島津には、関ケ原へ兵力を送る余力がなかったん
だろうと思います、この時、九州は清正が筑後、柳川城、立花宗重
を包囲、小西行長、居城、宇土城を一気に攻略、隙きあらば島津領内へと
虎視眈々と狙っており、又、黒田如水は関ケ原の戦況次第では、
九州を押さえ一気に徳川に対抗すべく動いています。
この天下分け目の決戦は、九州内も一触即発の緊張があったはず。
関ケ原に主力を送り、帰る場所を失うなんて事は、島津は決してやりません。
一見、兄、龍伯(義久)の義弘に対する冷たい仕打ちの様にも取れますが、
きっと、その事を一番、理解していたのは、義弘その人だったのでは
ないでしょうか?
しかし、国許の無い中、「殿」の為と、佐土原勢を引き連れ関ケ原に駈け付けた
島津豊久、(これは完全に軍律違反であるが、龍伯も黙認していた様子。)
や畑仕事のさなか、そのまま関ケ原に走り出し、路銀から具足まで途中で調達(奪った)
したなどの逸話の残る中馬大蔵など、この関ケ原に集まった島津勢は
義弘の為、薩摩の誇りの為と集まった薩摩武士なのである。
わしゃ、泣けてくるね。
写真右は島津豊久役、
「どうですか、お客さん」と言っている。(ウソ)
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